豪奢な寝台に埋もれるようにして姫発は横たえらた。
顔色は元々悪かったが、今はまさに土気色で、眼は固く閉じられ、逆に口元は弛緩して浅い呼吸を繰り返す。
この部屋には人払いをして誰もいない。楊ゼンは、太公望が知らせを聞いて退室し、姫発を運び込んだときにはすでにいなかった。
廊下では先ほどまで多数の人の気配がしていたが、何時の間にかになくなっていた。
だが、どれも太公望にとってはどうでもよいことだった。
『こやつの身体の事はわかっておろう。なぜ視察を許した!』
『小兄様が視察に行くと、午後突然おっしゃったのです。もちろん皆お止めしたのですが、あなたから許可が出ていると・・・』
太公望は枕元に腰掛け、姫発の顔にかかった前髪を払いのけた。その時一緒にぬぐった額の汗の、その粘つく感触に太公望の眉が寄る。
――あなたから許可が出ていると・・・。
「なぜだ・・・、おのれの体調くらいわかっておろうに!
おのれの立場がわからんわけでもあるまいに!」
思わず手近な敷布を握り締める。
すると、その横で姫発が身じろぎをした。慌てて太公望は姫発の顔をのぞき込む。
「姫発、姫発、気がついたか」
その呼びかけに触発されるようにうっすらと姫発の瞼が開かれた。
「姫発、わしだ、わかるか。気分はどうだ。どこか痛むところはないか」
目覚めたばかりの重病人に対する配慮も忘れ、太公望は必死に問い掛ける。
姫発の首がゆっくりと太公望の方へ横向かれた。だが、焦点は合っていない。
「へへっ、サイアク・・・」
かすれた声で姫発は答えた。だが笑いは失敗し、ただ口の端を歪めただけに終わる。
そんな姫発を見て、太公望は言いたいことが溢れるように喉元まで押し寄せてきた。それを唾液と一緒に飲み下し、もう一度姫発の前髪を払う。
「なあ、俺って、これで死ぬのか?」
さらりと言われたその言葉に太公望の手が止まる。
「まあ、いっか。それなりに楽しい人生だったぜ。うまいもん食って、プリンちゃんと遊んで、ダチにも恵まれて、しかも王様なんかにもなれたしな」
「何を言っておる!おぬしは・・・」
「だからさ、おまえはもう用済みだ。国を造って、後はもう大丈夫。俺が死んでも、この国には優秀な弟や臣がたくさんいるからな。
だからさ、・・・だから、おまえ、もう帰れよ。仙人界に、帰れよ」
太公望ははっと息を呑んだ。
「悪ぃな、昼間、楊ゼンとおまえが話してるとこ、聞いちゃったんだよ。話、よくわかんなかったけど、迎えに来てもらって、ゴネてんじゃねぇよ。おまえらが、何に、こだわってるんか知んねぇけど、みんな、待ってるんだろ?
おまえの帰り」
「わしは別にこだわってなぞおらぬ」
思わず生真面目に答えてしまった太公望に、姫発は苦しい息遣いの合間にへへっと笑いをこぼす。
「あいつにあんなこと、言ってやるなよ。あいつ、真面目だから、おまえの言ったこと、深刻に考えちゃってるよ。おまえはおまえで、いいじゃねぇか。みんな、そう思ってるはずだし、あいつだって、本当は、そう思ってるんだ。おまえら、物事を小難しく、考えすぎなんだよ」
「わかった、わかったからもう休め」
「もっと、単純でいいんだよ。おまえが『ただいま』で、あいつが『おかえり』って言えば、それですむんだよ」
そこまで言うと、姫発は知らぬ間に入っていた身体の力を抜いて顔を上向けた。だがその瞬間、ぐうっと喉が鳴ったかと思うと、激しく咳き込み始めた。
この弱っている身体には、咳き込むだけでも呼吸困難を生じさせ、命取りになる。太公望は気管がふさがれないように、急いで姫発の肩を抱くようにして横向かせた。そして姫発の広い背を強く擦る。
「姫発、しっかりしろ!」
やがて咳はおさまったが、未だ呼吸に何か詰まったような音がするため太公望はそのまま背を擦っていた。すると突然、姫発が病人と思えぬ力で太公望を抱き寄せる。
「死にたくねえ!俺はまだ死にたくねえ!助けてくれ、太公望!」
「落ち着け!姫発、落ち着くのだ!」
「まだやらなきゃいけねえことがあるのに!まだやりたいことがあるのに!」
「落ち着け!姫発!!」
溺れた子どもがすがるように腕の中の太公望を暴れながら掻き抱き、すべてを吐き出すように懇願する姫発に、太公望はありったけの力で姫発を抱きしめた。
泣き叫ぶ姫発が再び咳き込む。しかし今度はすぐにおさまった。
今度は取り乱すことはなかったが、荒い息を繰り返してむせび泣き始めた姫発に、抱きしめた姿勢のまま太公望は背を叩いてあやす。
「まだ駄目なんだよ、俺が死んだら、この国は・・・、せっかく戦が終わったのに、みんな、安心して暮らせるようになったのに、今俺が死んだら、バラバラになっちまう、せっかくみんなで造ったこの国が、また戦になっちまう・・・!」
太公望は血の気が引いた。武王の近親の一部に何やら不穏な動きがあることは知っていたが、まさか王の耳にそんなことが入るわけはない。
だが、元来英明なこの男は知識を得ることによって、先見に明るい賢君となった。
それが今回仇となる。余命幾許もない身でそれを知って何になろうか・・・!
「そうだ、姫発。この国は王たる要のおぬしを必要としているのだ!
だから、早くよくなれ。
そして明日の朝見で、見舞いと称して集まり来た四百余州の候の眼前で言ってやるのだ。武王姫発は健在だと。新王朝周は決して揺らぐことはないのだと」
気持ちとは相反して、力強く太公望は言い放った。それは自分にも言い聞かせていたのかもしれない。
「俺は怖い・・・。俺の身体が知らないうちに、少しずつ悪くなっていって、昨日とはぜんぜん変わらないのに、半月前と比べると、明らかに、悪くなっているのがわかるんだ。・・・・・・この身体は、待ってくれない。この国が落ち着くまで、もう大丈夫だと、思えるまで、この、身体は・・・・・・!」
鼻の奥がつんと痛むのを唇を引き結んで堪えて、太公望はより一層深く姫発を腕に抱く。
しばらくはそのまま腕の中で姫発が泣くに任せた。
「ゴメンな、太公望。おまえが、せっかくよくしようとしてくれた、この身体を、こんなにしちゃってさ」
太公望は身体を起こすと、脇の卓子に支度された壷の中の水を洗面器にあけて布を浸し、涙と汗と鼻水でぐちょぐちょになった姫発の顔をやさしく拭う。
ひんやりとしたその心地よさに、姫発の口元がうっとりとほころんだ。
夢心地のまま姫発は話し始める。
「あのな、昼間、おまえらの話を聞いたとき、俺、どうしていいかわかんなくなっちまって・・・・・・。もしかして、俺のせいで、仙人界に帰んないんじゃねぇか、とか・・・・・・」
「それはうぬぼれだ。おぬしごときがわしの行動を左右すると思ったか」
そっけない応えに姫発は笑った。
「そうだよなー、そう言うと思ったぜ。でさ、それとは別に、こうも思ったわけ。・・・もし、今、俺が倒れたら、おまえはずっと、ここに残ってくれるんじゃねぇかな、と・・・・・・」
「たわけが」
またもやそっけない応えに笑い出した姫発の額に、太公望は乱暴に濡れ布を押し付ける。
突然の額への冷たい刺激に、姫発の笑いが少しはおさまった。
熱と笑いで潤んだ瞳を太公望に向けて続ける。
「なんかさ、うらやましくなっちゃって・・・。おまえら、死なねぇんだから、今、離れてても、あいつは、いつまででも、おまえのこと待てるだろ。でもさ、俺には、今度がないから・・・・・・今しかないから、今、おまえを一人占めにしたって、それくらい、あいつも大目に見て、くれるよな」
いつのまにか姫発の口から笑みが消え、太公望の方を真摯に見つめていた。
「俺、いい王さまになっただろ。おまえがいなくなってからも、ちゃんとやってたんだぜ。旦や、邑姜や、他のやつらに、いろんなこと聞いて、勉強して、それを政治に生かしてる。民のことを一番に考えて、やってるんだ」
「そうだな、おぬしはいい王になった」
「だからさ、ちょっとくらいわがまま言ってもいいだろ、太公望。ここにいてくれよ。周が国として、やっていけるようになるまでで、いいからさ。・・・なあ、いてくれよ、太公望。」
太公望は返事をしなかった。短い沈黙の後、太公望が姫発から離れると、返事の代わりに姫発の口内に液体が流し込まれた。
飲み込んではいけない。・・・・・・気持ちとは裏腹に、姫発の身体は従順にそれを受け入れる。
ひどく哀しい気持ちになって、姫発は太公望を見上げた。薄暗がりの上、泣き腫らした目では太公望の表情までは伺えない。
「今宵はこうしてついててやろう。だからもう寝るがいい、姫発」
その声を合図にゆっくりと身体が落ちていくような感覚を感じながら、姫発は必死に太公望の影に呼びかけていた。
――待ってくれ、太公望。・・・・・・待ってくれ。
―続く
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『あとしまつ』第3弾です。
今回はママン太公望炸裂!!(爆)
何だか詰め込み過ぎてしまいました。お話が2つくらい作れそう・・・。
言いたいことが削れないというのは、ねこの悪いクセです。
文章のうまい方は、書きたいことがうまく絞れていますよね。
何事も欲張ってはいけません。(反省)
ずっと役割を持って生きてきた太公望にとって、何の役も演じていない今の状態はある意味辛いんじゃないかなと思います。
いままでは始祖として、封神計画の司祭として、軍師としての自分が必要とされていて、しかもその存在は誰にとっても絶対に欠かすことの出来ないものだったわけですよね。
だからすべての役割から開放されたとき、みんなから「帰ってきて」とは言われてるけど、いざ帰ったとき自分の居場所はあるのかなと不安に思っちゃう。帰ったら、もう自分は必要ないんだってことがばれちゃう。
それで考えたのは、みんなには会わないでいつまでも“太公望”を必要な存在と思わせて追わせる。
まったくの消息不明だとそのうちあきらめられちゃうかもしれないから、時々足跡を残しておく。
そうやって、“探されるくらい必要とされている自分”というプライドがいつまでも保てるわけですね。
・・・・・・って、ねこの勝手な解釈ですぅ〜(気弱)。変なファイルのついたメールはいりません。
まあいいや、自分ちだもん。そのためにここ作ったんだもん。なんでもかんでも垂れ流してやる、おらおら・・・。
・・・って、これRINさまへの贈り物じゃーん!(ダメ)

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